はじめまして!あかりです!
私は現在24歳ですが、大手の証券会社で年収540万円以上の給料をいただいていました。
しかし、商品を欲しいと思っていない方に一生懸命売り込みしたり、営業で説得しようとする仕事の現場に、正直なところ嫌気が差していました。
とはいえ、24歳で年収540万超えの収入を得られていたのは、辛い営業職だったからこそ。
営業を辞めて他の職種に転職するということは、同時に年収を下げる決断でもあります。
私はその選択肢しかない自分が嫌で、現在はゼロからWebの仕事を軸にしたフリーランスになることを目指すことにしました。
今回のプロフィールでは、
・私が営業職に就くまでの経緯
・営業職での経験
・そこからフリーランスを目指すことになった理由
をお話しします。
「今の仕事に限界を感じているけれど、辞めたら収入や働き方に制限がかかってしまう…」
そんな不満を持っている方にとって、少しでも参考になれば嬉しいです。
大手の証券会社を辞めて、フリーランスになった私が営業職をせずに当時の年収を超えることができるのか、私の挑戦をもとに確かめていただけたらと思います!
基本情報
・2000年4月生まれ(24歳)
・清水 あかり
・神奈川県出身
・MBTI:ISFJ(擁護者)
・好きなもの・こと:猫/食べること/野球観戦/ドラマ鑑賞/ドライブ/旅行
・特技:運動(小学生ではバスケットボールクラブに入会/中学1年生〜高校3年生まで陸上競技部に所属)
<営業実績>
・入社一年目でM&Aの契約獲得(新入社員約300人の中で1人)
・上位20%に入った経験あり
・半期の部門で5位入賞
活発で成績優秀な学生時代

時を遡ること24年。私はごく一般的な家庭に次女として生まれました。
幼い頃から、母が持病で入院していたこともあり、「自分のことは自分でやる」精神が身についていました。
そのため、身支度はもちろん、5歳になるくらいには包丁と鍋を使って味噌汁を自分で作れる様になっていました。
また、母が自宅にいる際には「何かしてあげられることはないか?」と子供心ながらに考え、行動して褒められるのがすごく嬉しかったです。
これがきっかけで、今では「頼りになる」「気配りが上手」なんて言っていただくことが多いです。(本当にありがたい…。)
中学生になった私は、友人の勧めもあり陸上競技部に所属。
本当は球技の方が得意でしたが、仲の良い友人がいるからというしょうもない理由で入部。笑
しかし、陸上部に入ったことで親友ができ今では良い選択だったなと思います。
学校の成績はオール5に少し届かないくらいでした。
とにかく負けず嫌いな私は、「テストの点数も成績も誰にも負けたくない!勝ちたい!」ただそれだけの理由で勉強していました。
迎えた高校受験では、当初手が届かないだろうと言われていた進学校に合格。
高校でも陸上部に入部し、県大会出場。
「なんだかんだやればできるんだ!」と思っていました。
初めての挫折を味わう

陸上部を引退した後、本格的に大学受験に向けて勉強スタート。
休日は塾の自習室に13時間籠ってひたすら勉強。
しかし、模試の成績はなかなか上がらない。
「あれ?もしかしてマズい?」
多少不安になりましたが、これまで順風満帆に過ごしてきた私は、「ひたすらがむしゃらにやればいける」なんて甘い考えでした。
その結果、落ちまくり。滑り止めに補欠で合格ができなんとか浪人せずに済みましたが、悔しくて悔しくてたまりませんでした。
学歴が全てだと思っていた私は「ああ、人生詰んだ」とまで思っていました。
そのため、大学に入学してもやる気が出ず、とりあえず単位だけは取っておこうと週6日、1時間半かけて通学していました。
大学2年生になる時にコロナが流行り始め、オンライン授業に切り替わり私のやる気はより一層低下していきました。
授業が始まる直前に起き、ベッドの上でパソコンを開いてとりあえず授業を流す。起きたら授業が終わってるなんてことも多々ありました。
そんな感じで、のらりくらりと特に頑張ったこともなく大学生活が過ぎていきました。
就活のはじまり。まさかの全落ち。

流行していたコロナが落ち着き始めた大学3年生の4月、私は就職活動に邁進していました。
世の中にいる一般的な就活生。将来何をしたいのかわからない。学歴が低いのがコンプレックスだった私はとにかく大手企業に入るのが目標でした。笑
そんな私でも「さすがに業界は絞らないとマズい」と思い、
・食べることが好き
・幼い頃から料理を作るのが好き
・居酒屋でのアルバイト経験
・大学のゼミでマーケティングについて学んでいたこと
などから
「食品メーカーに入ってマーケティングができたらいいなあ。将来自分が関わった商品が街に並んだら楽しそう。」
という安直な思いから、食品メーカーに片っ端からエントリーシートを送りました。
しかし結果は全落ち…。面談に進むものはあったものの内定はもらえず。大学4年生の3月頃に持っていた内定は飲食チェーンの店長候補というポジションのみでした。
周りの友達が内定が決まり、インスタのストーリーでは「終活(就活が終わったことを意味する)」という文字と共に楽しそうにしている写真ばかりでした。
今思うと、志望理由がありきたりで確かにこれじゃ通らないよなと思います。笑
大学4年生6月ついに終活!

就活がうまくいかない中、週に一度あるゼミに参加するため私は大学に登校。
ゼミが終わった後、友人に就活がうまくいかないことを相談すると
「金融系受けてみれば?」意外な一言に驚きました。
「なんで金融?」と聞き返すと「うちの学部卒の人、金融系多いみたいだから」と。
確かに大学のホームページを確認すると金融企業に入社している人が多いことがわかりました。
「食品メーカーは全落ちだし、特にやりたいこともないから金融系受けてみよっかな」という軽い気持ちで就活を再スタート。
するとトントン拍子で面接に進み、すんなりと大手証券会社に内定をもらえました。
おそらく食品メーカー時にエントリーシートをひたすら書いていたことで、書き方のコツを自然に掴んでいたんだと思います。
面接は接客業をしていたこともあり、得意だったことも内定をもらえた理由のひとつだと思います。
結果は、証券会社一社、銀行一社、はじめにもらった飲食チェーン一社でした。
やっと納得のいく企業から内定をもらった私は、舞い上がり大手の証券会社から内定をもらった瞬間に就活を終わらせました。
実は、食品メーカーの面接があったのですが、内定をもらった達成感と解放感から面接は辞退してしまいました。
「もしその食品メーカーに入社していたらこんなに苦しい思いはしなかったのかな」と今になって少しだけ後悔しています。
就活が終わり、残りの大学生生活は居酒屋のアルバイト三昧でした。あっという間に卒業のタイミングになり、2023年3月に大学を卒業しました。
希望に満ち溢れた入社式

内定をもらった証券会社は、入社前に約2ヶ月間ほど泊まり込みで研修を受けるのが必須でした。実家を出たことがない&人見知りな私は、正直めっちゃ嫌でした。笑
入社式前日に研修施設に泊まり、入社式当日シャトルバスで会場まで移動。バスで隣に座った子とはほとんど一言も話さずに会場に到着。
当時は「この子と話すこともうないんだろうな〜」と思っていましたが、研修が終わる頃には一番仲のいい同期になっていたことは驚きです。
入社式では、煌びやかな会場と社長や役員からのお言葉をもらい、わたしは「トップセールスになる!」と心の中でそっと意気込んでいました。
研修はあっという間で、仲のいい同期もでき研修内容もためになるものですごく充実した濃い2ヶ月間を過ごすことができました。
緊張の支店出社!

研修期間が終わり、初の支店出社。私はどの同期よりも緊張していたと思います。
というのも研修中に行われた配属される支店発表で、私は1人配属だと知ったからです。
緊張を共有できないし、私の行動が「今年の新入社員」というイメージをつけてしまうと重荷に感じていました。
しかし、出社してみると「新入社員1人」「女の子」という理由ですごく優しく迎い入れてもらえました。
先輩・上司もいい人ばかりで週3くらいで飲みに連れて行ってもらってました。笑
初の口座開設!

支店に配属された新入社員がまず目指すのは「新規口座開設」。
これはまだ弊社のお客様ではない人や企業をターゲットに口座を作ってもらうというミッションです。
今後商品を買ってもらいやすくするための窓口をつくるイメージです。運がよければ営業開始初日に口座開設が出来ます。
私が口座開設したのは6月。営業を始めてから1ヶ月以内だったので比較的早い方かなと思います。
口座開設ができた後は、資産導入してもらい有価証券を買っていただくことがミッションになります。簡単に言うと「口座にお金を入れてもらい株などを買ってもらう」ことです。
これが私は全くできませんでした。口座を開くこと自体は、お客様目線お金がかからないので「いつも来てくれるから」「頑張ってるから」と良心で開設してくれることがありますが、お金を入れるとなると話は別です。
まだ日本全体として運用に抵抗感を持っている人が多いのを痛感しました。いくら必要性を伝えても断られてしまいました。
同期がどんどん成績を出してく中で、私は目立った成績を出せず悔しかったのを覚えています。
快挙達成!

そこで私は、「自分にできることは何か考える」「相手の目線に立って考える」この2点を徹底しました。
飛び込み営業をする中で、いつも必ず会ってくださる社長がおり、今まではずっと運用について提案してきましたが、この社長にも断られてしまっていました。
そこで、「運用以外でなにか助けられることはないか?」と自分にできることを改めて考えるとともに、社長と今まで話してきたことを思い返しました。
「そういえば後継者いないって言っていたな…。」かつて話したたわいもない話から、社長の悩み事は運用ではなく、後継者不足ではないかと仮説を立て、私ができる後継者対策について考えました。
そして、提供しているM&Aの会社の方に同行してもらうことでスムーズにM&Aの契約を取ることができました。
これは新入社員300人の中で私がだけが唯一取れた契約でした。なので支店の上司からもたくさんのお褒めの言葉をいただき、本当に嬉しかったです。
毎日のテレアポ、飛び込み営業に疲弊

M&Aの契約が取れてから、営業がうまくいくと思ったら、また振り出しに戻った様に1からスタート。
1日100件のテレアポ、10件の飛び込み営業を毎日毎日繰り返していました。
電話越しに怒られ、飛び込みをしても門前払い…。
出口の見えないトンネルを走っているようでした。
入社前からわかってはいたもののこれがすごく辛い。
「わざわざ人に嫌がられる仕事をお金をもらってする意味があるんだろうか…?」
もちろん会社としては意義があると頭ではわかっていても、「この仕事を通して私が叶えたいものってなんだ?」とずっと頭をぐるぐるしていました。
最終的には、なんのために仕事をしているのかわからなくなり、
「電車に飛び込む人ってこういう気持ちなんだろうな」というヤバい思考をしてしまうほどでした。
休職を決意

自分を誤魔化しながら仕事をして、家に帰る。夜早く寝てしまうと、その分朝になるのも体感的に早くなるため、できるだけ夜更かしをする。その結果、寝不足で仕事に打ち込めない。成績も上がらない。できない自分を責めてしまう。
なんていう負のループに陥ってました。
その結果、会社を休みがちになり休職を決意。上司は、以前から私の悩みを親身になって聞いてくれていたので、有難いことに休職もすんなり受け入れてくれました。
会社の人たちは本当にいい人ばかりで、期待してもらっていた分悔しさと申し訳なさが込み上げてしまい、会社で泣いてしまいました。
転職活動

休職するためには、医師の診断書が必要だったため、人生初の精神科へ。
病院に行ったところ診断されたのは「適応障害」。休職してから1ヶ月は医師の勧めもあり、とにかく自分が楽しいと思えることだけをしました。
たくさん寝て美味しいものを食べる。映画をみたりジムに行って走ったりもしました。
そんな生活を1ヶ月続けた後、ようやく転職活動をスタートさせました。
仕事内容も給料も妥協したくなかったので、営業以外で稼げる仕事はなにか考え、第二新卒でもプログラマーとして働ける会社や金融事務などを中心に受けていました。
しかし、なかなか条件に合う仕事が見つからない。最大のネックは「リモートワーク可」という条件でした。
ここまでお話ししていなかったのですが、実は10年ほど交際している彼がおり、彼が来年から他県で働くことになったため、私も移住したくリモートワークができる仕事を探して転職活動をしていました。
リモラボに出会い、理想の自分が明確化される

うまくいかない転職活動の合間で眺めていたインスタのストーリーに、リモラボの広告が目に飛び込んで来ました。
そこには「オンライン秘書」「月収30万」「理想を実現する」と。皆さんが思うように、私も初めは「そんないい話はない。」と疑っていました。
しかし、心の中では「本当にそれが実現できたら幸せだろうな」と思っている自分がいて、気がついたらリモラボの投稿やこもりんの投稿を見漁ってました。
そこには、理想を叶えバリバリ働く女性たちの姿が載っており、「私もこうなりたい!」と思う様になっていました。
そこで、オンライン上で行われるリモラボの説明会に参加。成功するかわからないから最初は副業として始めようと、説明会が行われた当日にリモラボに入会。
私の中で新たなスタートを切りました。
覚悟を決めるきっかけになった母の言葉

リモラボに入会後も転職活動は継続。12月には、広告会社の事務で内定をいただきました。興味のある仕事で嬉しい反面、新しい仕事とリモラボを両立できるのか不安で内定承諾の返事はしていませんでした。
「6月には引っ越さなければいけないし、将来的にはフリーランスで働きたい。」
と思うと同時に
「フリーランスは成功するかわからないし、安定した収入が欲しい。」
と保険をかけたい自分もいました。
恋人や友人にも相談しましたが、なかなか答えが出せず。最終手段として両親に相談しました。最終手段というのも、両親とは仲が悪いわけではないのですが、中学生くらいからずっと思春期を引きずっており、気がつけば自分のことを話さない子供になってしまっていました。
両親も私の選択を尊重してくれるスタンスだったので、結局いつも事後報告になっていました。
そのため、「両親に相談する」ことに抵抗があり、最終手段という形になりました。
大手証券会社に勤めているのを誇りに思ってくれていた両親に「辞めて次の仕事を探す」というのも言いづらかった理由のひとつです。
意を決して、素直な気持ちを両親に話しはじめると涙が止まらなくなりました。
そんな中で母からは、
「フリーランスになりたいと思ってるなら、内定はお断りしなさい。
仮に入社したら、「新しい仕事が忙しいから」とフリーランスで成功しない言い訳になる。
本気でフリーランスを目指すなら一本で頑張りなさい。
20代なんていくらでも失敗できるんだから、失敗した時のことばかり考えない!」
と言われました。
正直、意外でした。安定思考の両親はフリーランスを目指すことを否定すると思っていたので、まさかこんな言葉が返ってくるとは思っていませんでした。
しかし、この母の言葉を聞いてフリーランスになって理想を叶える覚悟を決めることができました。
やはり母は偉大ですね。
これからについて

これまで、私がたった2年で大手証券会社を辞めた理由、フリーランスになることを決めたきっかけについてお話ししてきました。
これからは、このブログのタイトルの通り「営業職を辞めた私が営業職以上の年収を稼ぐ」までを細かくお伝えしていきたいと思っています。
今、仕事で悩んでいる方のひとつの選択肢として私の成長を見守っていただけたらと思います。